面影を残す城跡地を巡る
海や山など風光明媚な田原市。かつて江戸時代では田原藩という小藩が存在し、田原城も築かれた。
田原城址として復元建造物は多く、田原城の本丸は現存していないが跡地には巴江神社が建てられる。
城跡を訪れ当時の様子を触れてみた。
城址周辺を散策

復元された桜門。門には狭間(弓や火縄銃で攻撃するための開けられた穴)がみられ、当時の城の様子が再現されている。
門の傍に植えられたイチョウの木は秋になると黄色く色付き、また違った景色を楽しめそうだ。
訪問日は6月のため、まだまだ色付くのは先になりそう。

門の両側は「枡池」と「袖池」がある。写真は枡池。
当時は田原湾に面しており満潮時は三方は海に囲まれる。その様子が巴の形に似ていることから別名巴江城と呼ばれた。本丸跡の巴江神社もここから名前が取られている。
現在も袖池側は下り坂となっており、小丘に築かれ海に面した浮城のような佇まいだったようだ。

枡池の周辺を散策。こちらの池には城址内へ通じる道となっている。
過去に春に訪れたことがあったが…



石垣や堀、門と桜が映り風情溢れる景色を眺めることができた。
田原城址内

桜門から城址内を入っていくと、二の丸には田原市博物館、三の丸には護国神社となっている。
曲輪(城を構成する区画)や石垣など当時のものが残されており、歴史的な遺構も今なお現存する。

反対側から見た桜門。門の向こう側に見えるのが田原民俗資料館であり、その隣に田原中部小学校が建っている。
小学校はコンクリート塀で囲まれているのでなく、昔ながら土塀の造り。当時は藩校があり、田原藩や田原城との結びつきからこのような造りとなっていると思われる。
残念ながら本丸は復元されていないものの、他の復元建造物や石垣などの遺構が残り、お城が好きな方はそれなりに満足できる場所ではないだろうか。

博物館入口を裏から見た状態。
例年では紫陽花が咲いているだろうが、時期が遅かったのか暑さなのかあまり咲いていなかったのが残念。彩のよい紫陽花を見るのもいいのかもしれない。
本丸跡の巴江神社

巴江神社の本殿。当時はこの近辺に本丸が建っていた。
正月などは地元の人で賑わいをみせるが、訪れた時は人はおらず閑散とし寂しさを漂わせている。

手水舎がある。
年月は経っているが非常に綺麗である。手を清めておこう。

田原城は戸田氏から始まり、戦乱期の藩主交代を経て三宅氏へと落ち着いた。
明治の廃藩置県後に廃城となって現在のように巴江神社が建てられる。
田原城本丸はどんな形をしていたのかな。
渡辺崋山と子である渡辺小崋について触れる

そういえば田原市にゆかりのある人物といれば、渡辺崋山(1793年~1841年)が有名であろう。
崋山は田原藩家老であり、画家としても名を残した。
田原藩家老時代は飢饉対策に奔走し、食糧備蓄庫を備えてその飢饉を乗り越えた。
また崋山が生きた幕末は外国船が往来していた時代。幕府は往来する外国船に対して異国船打払令を発令。その幕府の対外政策に対して崋山は異を唱える。
しかし幕府を批判する書(草稿)が見つかってしまい捕まり、結果として田原へ蟄居の身となる。しかし、最終的には藩に迷惑がかかることを恐れ自刃を果たしてしまう。
崋山没後に開国や明治維新など時代が変遷。
ギリギリ明治時代を生きていたら崋山はどう思っていたのだろうか。
弟子が師となり、父と同じ画の道へ
画家として有名な崋山には多くの門弟がおり、その中でも椿椿山(1801年~1854年)は花鳥画に優れ、度々「何でも鑑定団」に作品が出てくるほど有名である。

崋山の死後、困窮する崋山家族をみるために、椿山は崋山の息子である渡辺小崋(1835年~1887年)を弟子にする。
小崋の幼い頃に崋山は亡くなり、父から画を教わることは叶わず。そのため小崋は父の弟子であった椿山から画を学ぶ。父との比較もされることがあったが切磋琢磨し、後に小崋も多くの門弟を輩出するほどに成長。国際博覧会に画を出品したり、明治宮殿の杉戸絵制作の担当となるなど活躍を果たす。
父から子へ、またその中で父の弟子が師となって、父の遺した画業を授かり後世に名を残すというのは何とも感慨深いものを感じた。
アクセス情報
博物館駐車場(無料)があります。年始や祭事には混む場合があります。



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