紅葉と崋山 田原市【池ノ原公園】


巴江神社(田原城址)より数キロの所に池ノ原公園がある。

郷土の偉人、渡辺崋山終焉の場所となった幽居の跡地として造られている。

11月初旬ごろの崋山像と紅葉 まだ青さが残っている

崋山自身は東京都の田原藩邸にて生まれている。

兄弟が多くおり、とても裕福とはいえない家庭であった。困窮さから兄弟は寺へと奉公へ出されており、兄弟と別れることは崋山自身も嘆いていた。

また、崋山自身も武士の家の出であるものの、年少期に大名行列の前に出てしまい、居合わせた武士たち酷い仕打ちを受ける。武士階級の差を痛感した崋山はこの出来事から、勉学に励んでいき、高い身分の者とも対等な立場になるようにと志していく。(立志)

11月中旬 紅く色付いている

藩士として職務の傍ら、画才としても有名になりつつあり、崋山門下にも椿椿山など多くの画家を輩出している。また息子の渡辺小華も画家としての道を歩んでおり、こちらも多くの門弟をかかえる(小華の年少期に父・崋山は自刃しており、崋山門下であった椿椿山が師となる)

勉学においても、儒学、農学、兵学などを学び、田原藩士としても重鎮となる。江戸後期に発生した飢饉においても、予め食糧備蓄庫を備えており、餓死者を出さずにその苦難を乗り越えている。

また、蘭学にも励んでいき、西洋事情も学んでいた。

崋山像と紅葉

蛮社の獄

外国事情にも詳しくなり、田原という土地柄、外国の噂も入るようになる。

幕末においては、外国船の往来が多く、鎖国体制を敷いていた幕府にとっては脅威であった。外国船が来たら砲撃し追い返す打ち払い令を発令。そんな折、日本人漂流民を引き連れた外国船を砲撃した事件(モリソン号事件)が発生。この情報を聞いた崋山は幕府の行動を批判。書として書くものの、幕府に見つかり、崋山は捕らえられてしまう。

復元された崋山幽居の跡地

死罪や永牢は免れたものの、ここ田原の池ノ原にて幽居となる。困窮していた崋山を救おうと門弟たちは崋山の画を売り、生活を支えていたが、画を描くという行動が罪人なのに慎んでいないのではないかと噂が立ち、藩にも迷惑がかかることを恐れ、崋山自身ここで自刃を果たしている。

幽居の跡地であるためか、こじんまりとした場所である。

秋も終わり、15時であったが、日が傾いている。

向こうに見える時計塔は田原福祉専門学校である。敷地内にカフェがオープンされていた。

所々、椿の花が咲いている。公園裏手には椿公園という公園があり、何かの縁があるのかもしれない。

11月下旬であったが、まだまだしっかりと色付いていない。

巴江神社も覗いてみた。博物館よりはそれなりに色付いていたが、しっかりと色付くのはまだまだかかりそうである。


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