田原市の中でも馴染みのある神社となると巴江神社(はこうじんじゃ)が思い浮かぶであろう。
かつては田原城の跡地にて建てられた神社である。
周辺が堀となっており、当時の面影が残されている。
巴という形から巴江(はこう)という名が付いたと昔教えてもらった気がする。(うろ覚え)
そんな中、夕方どきにふと寄ってみた。

中心の桜門。
手前のイチョウの木は秋になると黄色く色付き、また違った趣を楽しめる。

門の両脇はお堀であり、ます池とそで池がある。
田原城跡地だけあって、神社というより昔の城である。

桜門を入っていくと、右手に併設している田原博物館がある。
石垣造りであり、神社というよりやっぱりお城である。


博物館入口を裏手から見た状態。
紫陽花だろうか?あまり詳しくないけど、色とりどりの花が植えられて風情を感じる。

そのまま進んでいくと拝殿が見えてくる。
夕方ごろのため、自分しかいない。
正月などは、地元の人で賑わっていたが、最近ではあまり正月に訪れたことがない。

左手には手水舎がある。
作りとしては非常に綺麗である 手を清めておこう。

境内にある大きな木 ご神木だろうか。

紅葉?を背景に拝殿を撮ってみた。
何気なしに拝殿と書いているが、本殿との違いがいまいち分かっていない。

隣に鳥居が連なっている。
手前に招福石がある 名前から触ると福を招くのかな。


鳥居の中に入っていくと、少し京都の伏見稲荷のような気分だ。
鳥居を抜けると小さい社がある。
一通り回っただろうか。
そういえば、田原の偉人となると渡辺崋山(わたなべかざん 1793年~1841年)が有名であろう。
崋山は、田原藩家老であり、画家としても名を遺している。
ここ巴江神社も、もともとは田原城があったので所縁の地であろうか 家老時代は飢饉対策に奔走していたそうな。
また崋山が生きた幕末は、外国船が往来していた時代。
幕府は往来する外国船に対して異国船打払令を発令していた そんな中で崋山は鎖国を貫く幕府に対して異を唱えていた。
しかし幕府に対しての書が見つかり、捕らえられてしまう。
結果としては、崋山の門弟たちの計らいもあり田原にある自宅に蟄居となるも、最終的には自ら切腹してしまう。
その後は、開国であったり明治維新であったりと時代が変遷してい。。
ギリギリ明治時代を生きていたら崋山はどう思っていたのだろうか。
また、画家として有名な崋山には多くの門弟がおり、その中でも椿椿山(つばきちんざん 1801年~1854年)は花鳥画に優れ、度々「何でも鑑定団」に作品が出てくるほど有名である。
崋山の死後、困窮する崋山家族を見るために、椿山は崋山の息子である渡辺小崋(わたなべ しょうか 1835年~1887年)を弟子にする。
小崋の幼い頃に崋山は亡くなり、小崋は父の弟子である椿山に画を学ぶ そして小崋は後世に多くの門弟を輩出し、国際博覧会に画を出品したり、明治宮殿の杉戸絵制作の担当となるなど活躍をしている。
父から子へ、またその中で父の弟子が師となり子へ画業を授け後世に名を遺すというのは何とも感慨深い
崋山終焉の地となった池ノ原公園は、巴江神社から数キロ離れた先にある。
またの機会に訪れようと思う。